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図167 堀川建設以前の街路構成推定図

 

いた(といっても相当に低かったに違いない)。その低い部分を越えて飫肥城下と連絡していたと考えられる。漁村集落の中心部山際には社寺が立地していたであろう。こうなると良く見られる漁村集落の形態に近づく。

 

?)堀川建設以後
劇的な変化が堀川建設であった。藩の経済を支えるとはいえ、広瀬川から油津までは危険な荷送りの航海であった。伊東藩は寛永頃に大量の杉を買い付けており(「油津−海と光と風と−」NIC21編鉱脈社1993年P.62)、ちょうど伐採期となったころ効率よく大量の杉材を出荷する決意をしたようだ。それは2年4ヵ月を経て貞享三年(1686)竣工した。堀川は広瀬川から尾伏鼻を廻ることなく安全な水路を下って油津につくことができるようになった。それまでは荷は南の海からやって来たが、それからは全く反対の山側から来るのだから劇的な変化である。山から直接杉材が届けられるように錯覚したかもしれない。
堀川は単にそれだけのためにだけ機能したのではない。往来する舟は多かったことだろう。河口がそれまでの港を大きく内陸に引き込むことにもなった。それまでは依然として南西が港であったものが、海に面しない川(西側)が活動の中心となった。人の多く住む堀川東岸(西岸には引き続き藩の施設があった)はまさに港の役割をもつようになった。こうした機能の劇的な変化が新しい町を建設する引き金である。堀川東岸を中心とする町づくりが始まったのであろう。川に面して荷を上げるための仕掛けが必要になっただろう。荷をさばく空地も必要だっただろう(勘場という)。上陸した商品は3本の道路を使って一直線に商家に運びこまれたに相違ない。それからの油津は上町中町下町を中心に活気を呈していった。

 

?)近代油津港建設以後
藩政期から大正期まで堀川が経済と流通の中心であったが、汽船の時代が到来し、漁業も大型化した。堀川河口港は手狭になる。近代港湾が望まれ、確実に中心が南に向く。徐々にではあったが堀川の重要性が低下していった。町もそれに影響されないはずはなかった。しかし基本的な骨格を変えぬまま、現在に至っている。

 

 

 

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